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2015-02-05 16:27    chloe ショルダーバッグ
 こんなことをある友人と話しながら、「九州の考古学界があげて古墳の発生を、畿内地方ではなく九州ではなかったのかと、もう少し積極的に考えてくれたら——」といったところ、彼は「問題は一発で解決するよ。邪馬台国が九州に存在した確証をあげさえすれば——」といった。まったくその通りである。しかし私はなお考える。高塚古墳の発生が邪馬台国問題にからもうとからむまいと、発生そのものの正否が学問的に明らかにされることは、なお重要なことではないかと。  いまや九州の前期古墳はつぎつぎに発見されつつある。だがそれが発掘した人々によって、あえて宣言されないことも残念の一つである。また最近はトンピンな大学教授などが、クイズ番組のゲストに出たりテレビでいいかげんなことをいってはしゃぎまわるので、まじめな学者は迷惑し、国民の大多数の顰蹙《ひんしゆく》をかっている。まことに残念なことだと思う。 第九章 邪馬台国を捜すための基本条件  都が水道の意味であることを改めて考えなおしてみると、涜盧《トクロ》のトもまた倭と境を接していた以上、水道を意味しているように思われる。残るクロは狗邪《コヤ》に対する狗盧《クロ》ではなかったろうか。つまり都狗盧《トクロ》が涜盧になったことが十分に推察されるのである。というのは、邪《ヤ》の音がもっぱら海湾を意味しているのに対して、盧《ロ》が後述する末盧《まつろ》国の盧《ろ》と同じく、未開、雑木の地、転じて古代における焼き畑を意味するからである(ロの意味は後代、原または野の字を以ってあてられる)。だから涜盧も狗邪と同じく、「コの海」に面した焼き畑の国を意味する国ではなかったろうか。  ともあれ巨老県の老が涜盧の盧を意味する以上、涜盧と相接する水道に面した県という意味で、沙都も巨老も共に同じことをいっているのである。呼び名としては時代的に裳郡や巨老より沙都島の方がはるかに早く、そして古い。この沙の音から裳郡と名づけられるまでは、巨済島のことをサトといったりコサといったり、トクロといったりして混同していたので、コロウ(巨老)という呼び名が自然に生まれたのではなかろうか。だから巨済島の一部に涜盧と記されていても、漠然とした当時の地図でもあり、いっこう不思議はないのである。  幸い現地調査によって、この沙都島の沙都が現存していることも確認した。現在の用字は違っているが、そこは沙等面といって巨済大橋を渡ってすぐの鎮海湾に面した村である。沙等里も徳湖里もこの沙等面の中にある。忠武水道から鎮海湾にかけて、要害の地を占め、背後の丘には城砦の跡らしい遺跡ものこっている。  ところで、巨済島のことを邪馬台国時代になぜ狗邪韓と呼んだか、という問題が残る。これは河のことをコ、入り江や湾のことをヤと呼んだということについてはたびたび詳述したとおりだが、ここでは大きな河(洛東江)が注いでいる湾の意味であったように受けとれる。すなわち鎮海湾を指しているのだと思う。わかりやすくいえば、当時この海を狗邪の海といった呼び方をしていたのではなかろうか。したがって狗邪韓とは、狗邪の海に面した韓の国という意味であろう。弁辰狗邪国も同じ狗邪の海に面し、巨済島の対岸に当たるのである。 韓伝と倭人伝の共通性  ここでちょっとことわっておくが、読者の中には、このころの韓国の国名に、旧い日本語の解釈を押しつけていいのか、という疑問を抱く人もいるだろう。だが韓伝に記載された国名の中には、不弥国、弁楽奴国、弁辰弥烏邪馬国などといった倭人伝と同字同音の国名があり、これから私が比定しようとする邪馬台国所属の国名解釈と同じ解釈で、韓国内の地形に応じてあてはめてみると、立派に解釈できるのである。そして韓伝に記載された弁韓、辰韓、併せて二十四国という国々がどこだったかを、すでに私は現地踏査によって、おおむね比定し終わっている。  また韓伝には「男女は倭に近く、亦《また》文身し……弁韓と辰韓は雑居している」と記されている。このことは言語風俗習慣が倭人と似かよっていることを説明しており、当時は九州北西岸とあまり差がなかったように考えられる。考古学的遺物もこのことを裏づけているようである。特に現在の日本と韓国という二国間の問題として韓伝や倭人伝を考える人が多いが、当時はまだ強力な国家体制が確立されておらず、壱岐、対馬と韓国南岸との間の海はまったく自由で共通の海域だったのである。だからこの時代の日本語と韓国南岸の言語が、韓伝に記載されているように、さほど違ってはいなかったといっても過言ではない。それゆえ国名の意味も比較的容易に解釈できるのである。 半島に進出した倭人たちの拠点  次に、狗邪韓国が巨済島であったということまではわかったが、狗邪韓国が果たして倭国に属していたかどうかという点についての疑問が、まだ読者には残るであろう。この問題については古来意見の分かれるところだが、私をして言わしむれば、答えはきわめて簡単である。それは狗邪韓国が国名の示すとおり韓国の地でありながら韓伝にはあげられず、わざわざ倭人伝の冒頭に記載されているという事実である。これほど倭国に属していたという確かな証拠があろうか。  もはや冗言になるかもしれないが、もし狗邪韓国が倭国に属しなかったとすれば、「其の北岸狗邪韓国に到る」という倭人伝の記事は「其の南岸狗邪韓国に到る」と訂正されなければならないのである。ややもすれば倭人伝を九州から韓国の方を向いた姿勢で解釈しがちだが、記事の内容は、あちらからわが国をさしてやって来た文章であることを忘れてはならない。  なお、狗邪韓国が倭に属していた実体は何であったろうか。稲を作り、半農半漁に従事する、いれずみをした倭人の集団が、耕地の狭い対馬や壱岐から、自由な海を越えて、風土の似かよったこの地へ移り住み、小国を作っていたか、あるいは、もともと倭人と同じ言葉や習俗の者たちが、以前から住みついていて小国家を作っていたところへ、倭国の進出によって本格的に倭国に属するようになったものとも考えられる。