クロエsam長財布
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null 日本人の旅行者だと、四人のうち三人は、最後の一枚を受取らないで、行ってしまうのではないかと思います。  こんな時には、日本語で構いませんから、「オイ」とか「コラァ」なんて、決して微笑んだりせずに言って、掌を顔の前に突き出してやれば、イタズラを見付けられたような顔で、ニッと目尻に|皺《しわ》を寄せながら、残りの札を出すのです。  バレても平気なのは、他人の女房でも釣銭でも同じで、だからイタリア人は嫌われるのでした。それに泥棒やひったくりに、チャチなペテン師といった怪し気な連中が、ローマの街にはウヨウヨいて、主に日本人の旅行者に狙いを定めています。  けどそれが見るからに怪しい男たちなので、こんなのにやられるようでは、とても常識のある大人とは思えません。  私は、日本や他の外国の悪党共に比べて、素朴で悪知恵の発達していないそんな男たちを、むしろいとおしくさえ思っていました。  ローマの漫画のようなゴロツキの話はさておき。  私の乗ったタクシーは、石畳のローマの道を弾みながら突っ走ると、ホテルの建っている丘に登る坂道にさしかかったのですが、途中から急に道が混み始めて、たちまち坂は車が数珠つなぎになったのです。  時々少しずつ動くので、イタリア人の運転者たちは、前の車との間に出来た隙間に、すごい音でエンジンの回転をあげると、にじり出るのでした。  まわりの車を見ていた私は、そのたびにどの車も、ズズズと後ろに下がるのに気がついたのです。  この街ではどんなことを見ても、滅多には驚いたりしない私ですが、どうやらイタリア人は、坂道発進で、ハンド・ブレーキを使わないと知ると、これには口を開けて驚いてしまいました。  私の乗っていたタクシーの運転手も、そんな物には、さわりもしません。  おまけに、すぐ前の車が止まっても、ずっと前の方が動いていると、|可成《かなり》な坂だというのにエンジンをふかして、ハーフ・クラッチで、小刻みに前後に動きながら、いつまでもそうしているのです。  これがこの街ではごく普通らしくて、他の車も皆そうしているようでした。  これではクラッチが堪りません。  世界を制した日本の自動車だというのに、なぜかこの国ではほとんど見かけないのですが、他はともかくクラッチだけを、|矢鱈《やたら》と強化した車を輸出すれば、アッという間もなく市場を独占するのに決まっています。  私が呆れ返っていたら、まるでこんなこと|嘘《うそ》みたいなのですが、前の前にいた車が後ろに下がるばかりになって、ついにはグシャッと前の車に当ると止まってしまったのは、クラッチが壊れたのです。  前の車はホーンを押しっ放しにすると、窓から男が上半身を乗り出して、拳固を振りまわして|喚《わめ》き立てました。  坂の上の方はずっと空いたのに、こちら側の車は、くっついていて動けません。